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著者プロフィール
後藤 新平(ゴトウ シンペイ)
1857(安政4)年、水沢(現岩手県奥州市)の武家に生まれ、藩校をへて福島の須賀川医学校卒。1880年(明13)、弱冠二十三歳で愛知病院長兼愛知医学校長に。板垣退助の岐阜遭難事件に駆けつけ名を馳せる。83年、内務省衛生局に。90年春、ドイツ留学。翌々年帰国後、衛生局長。相馬事件に連座し衛生局を辞す。95年、日清戦争帰還兵の検疫に手腕を発揮し、衛生局長に復す。98年、児玉源太郎総督の下、台湾民政局長(後に民政長官)に。台湾近代化に努める。1906年9月、初代満鉄総裁に就任、満鉄調査部を作り満洲経営の基礎を築く。08年夏より第二次・第三次桂太郎内閣の逓相。その後鉄道…( ) 後藤 新平(ゴトウ シンペイ)
1857(安政4)年、水沢(現岩手県奥州市)の武家に生まれ、藩校をへて福島の須賀川医学校卒。1880年(明13)、弱冠二十三歳で愛知病院長兼愛知医学校長に。板垣退助の岐阜遭難事件に駆けつけ名を馳せる。83年、内務省衛生局に。90年春、ドイツ留学。翌々年帰国後、衛生局長。相馬事件に連座し衛生局を辞す。95年、日清戦争帰還兵の検疫に手腕を発揮し、衛生局長に復す。98年、児玉源太郎総督の下、台湾民政局長(後に民政長官)に。台湾近代化に努める。1906年9月、初代満鉄総裁に就任、満鉄調査部を作り満洲経営の基礎を築く。08年夏より第二次・第三次桂太郎内閣の逓相。その後鉄道院総裁・拓殖局副総裁を兼ねた。16年秋、寺内内閣の内相、18年春、外相に。20年暮、東京市長となり、腐敗した市政の刷新、市民による自治の推進、東京の近代化を図る「八億円計画」を提唱。22年秋、アメリカの歴史家ビーアドを招く。23年春、ソ連極東代表のヨッフェを私的に招き、日ソ国交回復に尽力する。同年9月、関東大震災直後に第二次山本権兵衛内閣の内相兼帝都復興院総裁となり、再びビーアドを緊急招聘、大規模な復興計画を立案。政界引退後は、東京放送局(現NHK)初代総裁、少年団(ボーイスカウト)総長を歴任、「政治の倫理化」を訴え、全国を遊説した。1929年遊説途上、京都で死去 |
もくじ情報:前の幕(平和主神の御座;地球外なる中空);後の幕(欧亜境界の断崖)
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