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内容紹介・もくじなど
著者プロフィール
石原 昌家(イシハラ マサイエ)
1941年、台湾宜蘭市生まれ、沖縄県那覇市首里出身。沖縄国際大学名誉教授。沖縄の生活史、戦争体験などの研究。1970年から沖縄県史、各市町村史字誌などの編纂執筆にかかわる。沖縄の各平和資料館企画に参加。第三次家永教科書訴訟(沖縄戦部分)や沖縄靖国神社合祀取消裁判等の専門家証人として証言。全戦没者刻銘碑「平和の礎(いしじ)」の刻銘検討委員会元座長等歴任(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 石原 昌家(イシハラ マサイエ)
1941年、台湾宜蘭市生まれ、沖縄県那覇市首里出身。沖縄国際大学名誉教授。沖縄の生活史、戦争体験などの研究。1970年から沖縄県史、各市町村史字誌などの編纂執筆にかかわる。沖縄の各平和資料館企画に参加。第三次家永教科書訴訟(沖縄戦部分)や沖縄靖国神社合祀取消裁判等の専門家証人として証言。全戦没者刻銘碑「平和の礎(いしじ)」の刻銘検討委員会元座長等歴任(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) |
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もくじ情…(続く)
もくじ情報:山道で一人の老婆が倒れていました。体は衰弱しきっていて、か細い声で「お水をください」と私に呼びかけたのです;だけど、軍隊ではそのような優しさは通用しなくてね。規則を破ったことでひどく叱られた;そうね。自分たちもいつ死ぬか分からないから、みとるというよりも、姉さんは、どんなしてこのお父さんの死体を埋葬するか、一人で考えていたと思う;本土の方はゴザ敷いて。初めてゆで卵見てね、もううらやましくしてよ。あんたも上がりなさいっていう人はいなかったよ;戦争があれしてから、毎日、避難民が山から下りてる。避難民が全部、いっぱいいるけど、あんしぇ死ぬ人が、今日は何十名、今日は百名って、どんどん増えていってからに;センスがあったんだはずよ;その時、その家族と暮らしていたらよ、三股の子どもになったいたらよ、全然違っていた生活だったはずね;いやもう素早いんだ。それがみんなの最期なんだよな;怖かったよ本当。だからね、人が住んでるのに何もしないのに。怖いんだよ、本当に三年生だったからね;理不尽なことはたくさんあったのですが、どうしようもありませんでした。それが戦争なのです;僕がおしっこをかけた兵隊さんは、生き延びたのか、気になるね;久得から屋良まで遠くて、学校に向かうのはとっても大変だったよ。もうフェンスの向こう側にあるからそこに行くことはできないね;わんねーあまくまーるうびとーしがあちまてぃあんしその場で戦争ぬ歌?聞かせたさねー;そうして、同伴していった船がね、一隻沈んだんじゃないかな。泊かなんかあの辺の子どもたちが乗っていたのだと思うけどね;だから、心残りはないさ。な、父ちゃん、な。はっしゃびよ。威張ってるよ。本当よ、字も分からん人が;飛行機から「やんばるの方に疎開しなさい」ってビラが落ちよったって。その話をよくしてたね;あんたちは、辺野古のやんばるに避難しよーねーって馬車に乗せていこうとしてるときに、十・十空襲の戦闘機がビューンビューンして飛ぶのが見えたわけさ;月んあたがやー、ねーんはじどう。真っ暗しんりいいしやか、ふんとぅぬ真っ暗しんのあらん;あいやぁ、もう戦争の弾の中からあんなにしてしのいできてね、こんな形で亡くなったと思って、もう涙が止まらんわけさ;そしたら、そういう国で勉強したいとかそういう国の人と仕事したいって思うようになった〔ほか〕