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内容紹介・もくじなど
著者プロフィール
後藤 明生(ゴトウ メイセイ)
1932年4月4日、朝鮮咸鏡南道永興郡永興邑(現在の北朝鮮)に生まれる。旧制中学一年(十三歳)で敗戦を迎え、「三十八度線」を超えて福岡県朝倉郡甘木町(現在の朝倉市)に引揚げるが、その間に父と祖母を亡くす。引揚げ後は旧制福岡県立朝倉中学校(48年に学制改革で朝倉高等学校に)に転入。当初は硬式野球に熱中するが、その後、「文学」に目覚め、海外文学から戦後日本文学までを濫読。高校卒業後、東京外国語大学ロシア語科を受験するも不合格。浪人時代は『外套』『鼻』などを耽読し、本人いわく「ゴーゴリ病」に罹ったという。53年、早稲田大学第二文学部ロシア文学科に入学在学中の55年、「…( ) 後藤 明生(ゴトウ メイセイ)
1932年4月4日、朝鮮咸鏡南道永興郡永興邑(現在の北朝鮮)に生まれる。旧制中学一年(十三歳)で敗戦を迎え、「三十八度線」を超えて福岡県朝倉郡甘木町(現在の朝倉市)に引揚げるが、その間に父と祖母を亡くす。引揚げ後は旧制福岡県立朝倉中学校(48年に学制改革で朝倉高等学校に)に転入。当初は硬式野球に熱中するが、その後、「文学」に目覚め、海外文学から戦後日本文学までを濫読。高校卒業後、東京外国語大学ロシア語科を受験するも不合格。浪人時代は『外套』『鼻』などを耽読し、本人いわく「ゴーゴリ病」に罹ったという。53年、早稲田大学第二文学部ロシア文学科に入学在学中の55年、「赤と黒の記憶」が第4回・全国学生小説コンクールに入選し、「文藝」に掲載。卒業後、1年間の就職浪人(福岡の兄の家に居候しながら『ドストエフスキー全集』などを読み漁る)を経て、学生時代の先輩の紹介で博報堂に入社。翌年、平凡出版(現在のマガジンハウス)に転職。62年、小説「関係」が第1回・文藝賞・中短篇部門佳作として「文藝」復刊号に掲載。67年、小説「人間の病気」が芥川賞候補となり、その後も「S温泉からの報告」「私的生活」「笑い地獄」が同賞の候補となるが、いずれも受賞を逃す。68年3月、平凡出版を退社し執筆活動に専念。73年に書き下ろした長編小説『挟み撃ち』が柄谷行人や蓮實重彦らに高く評価され注目を集める。また、古井由吉、坂上弘、黒井千次、阿部昭らとともに「内向の世代」の作家と称されるようになる。77年に『夢かたり』で平林たい子文学賞、81年に『吉野大夫』で谷崎潤一郎賞、90年に『首塚の上のアドバルーン』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。89年、近畿大学文芸学部の設立にあたり教授に就任。93年より同学部長を務め後進の育成に尽力。小説の実作者でありながら理論家でもある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) |
もくじ情報:第1章 墓碑銘(わが苦き言葉もて人々は笑うなり);第2章 笑いの方法(消滅と出現;謎としての現実 ほか);第3章 ペテルブルグの迷路(「笑い地獄」の頃;立場と文体);第4章 さまよえるロシア人(ヨソ者の目;幾つかの問題 ほか);第5章 方法としての喜劇(小説の構造;噂の構造)
もくじ情報:第1章 墓碑銘(わが苦き言葉もて人々は笑うなり);第2章 笑いの方法(消滅と出現;謎としての現実 ほか);第3章 ペテルブルグの迷路(「笑い地獄」の頃;立場と文体);第4章 さまよえるロシア人(ヨソ者の目;幾つかの問題 ほか);第5章 方法としての喜劇(小説の構造;噂の構造)