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日本の哲学・思想(近世)
出版社名:明徳出版社
出版年月:2009年10月
ISBN:978-4-89619-717-4
206P 26cm
言志四録抄録
佐藤一斎/著 渡邉五郎三郎/訳 勝川華舟/浄書 世良田嵩/編
組合員価格 税込
1,485
円
(通常価格 税込 1,650円)
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内容紹介・もくじなど
もくじ情報:1 言志録;2 言志後録;3 言志晩録;4 言志耋録
もくじ情報:1 言志録;2 言志後録;3 言志晩録;4 言志耋録
著者プロフィール
佐藤 一斎(サトウ イッサイ)
安永元年(1772年)、美濃(岐阜)巖邑藩家老の子として生まれた。名前は坦、字は大道。幼少の頃より儒学に親しみ、林述斎、中井竹山、皆川淇園など高名な学者について学び、文化2年(1805年)三十四歳の時、林家の塾長に推され、文政9年(1826年)・五十五歳の時、巖邑藩の藩儒になる。天保の改革に当たり老中・水野忠邦により幕府の儒官に登用され、林述斎亡き後、昌平黌の責任者となり、学を講じた。官では朱子学、私塾では陽明学を講じ「陽朱陰王」と陰口をたたかれたが、朱子学と陽明学の精神の融合に努めた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
佐藤 一斎(サトウ イッサイ)
安永元年(1772年)、美濃(岐阜)巖邑藩家老の子として生まれた。名前は坦、字は大道。幼少の頃より儒学に親しみ、林述斎、中井竹山、皆川淇園など高名な学者について学び、文化2年(1805年)三十四歳の時、林家の塾長に推され、文政9年(1826年)・五十五歳の時、巖邑藩の藩儒になる。天保の改革に当たり老中・水野忠邦により幕府の儒官に登用され、林述斎亡き後、昌平黌の責任者となり、学を講じた。官では朱子学、私塾では陽明学を講じ「陽朱陰王」と陰口をたたかれたが、朱子学と陽明学の精神の融合に努めた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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安永元年(1772年)、美濃(岐阜)巖邑藩家老の子として生まれた。名前は坦、字は大道。幼少の頃より儒学に親しみ、林述斎、中井竹山、皆川淇園など高名な学者について学び、文化2年(1805年)三十四歳の時、林家の塾長に推され、文政9年(1826年)・五十五歳の時、巖邑藩の藩儒になる。天保の改革に当たり老中・水野忠邦により幕府の儒官に登用され、林述斎亡き後、昌平黌の責任者となり、学を講じた。官では朱子学、私塾では陽明学を講じ「陽朱陰王」と陰口をたたかれたが、朱子学と陽明学の精神の融合に努めた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
安永元年(1772年)、美濃(岐阜)巖邑藩家老の子として生まれた。名前は坦、字は大道。幼少の頃より儒学に親しみ、林述斎、中井竹山、皆川淇園など高名な学者について学び、文化2年(1805年)三十四歳の時、林家の塾長に推され、文政9年(1826年)・五十五歳の時、巖邑藩の藩儒になる。天保の改革に当たり老中・水野忠邦により幕府の儒官に登用され、林述斎亡き後、昌平黌の責任者となり、学を講じた。官では朱子学、私塾では陽明学を講じ「陽朱陰王」と陰口をたたかれたが、朱子学と陽明学の精神の融合に努めた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)