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学術・教養文庫その他
出版社名:新学社
出版年月:2005年5月
ISBN:978-4-7868-0067-2
327P 16cm
宮崎滔天/近代浪漫派文庫 9
宮崎滔天/著
組合員価格 税込
1,364
円
(通常価格 税込 1,436円)
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内容紹介・もくじなど
もくじ情報:三十三年之夢;侠客と江戸ッ児と浪花節;浪人界の快男児宮崎滔天君夢物語;朝鮮のぞ記
もくじ情報:三十三年之夢;侠客と江戸ッ児と浪花節;浪人界の快男児宮崎滔天君夢物語;朝鮮のぞ記
著者プロフィール
宮崎 滔天(ミヤザキ トウテン)
明治3年、熊本県に生れる。徳富蘇峰の大江義塾、次いで東京専門学校に学び、また小崎弘道によりキリスト教の洗礼を受けるが、八郎、民蔵、弥蔵の兄たちの感化で、中国革命の援助を念とする早い民間の浪人として大陸の諸方に行する。挑戦独立党の金玉均あるいはフィリピン独立運動のポンセと識り、同志と事業に挺身するうち明治30年に初めて孫文に会してからは、孫を扶けて奔命するも、同33年のいわゆる恵州事件で志の破れたことから身を転じ、浪曲師桃中軒雲右衛門の門に入った。その後同38年、中国革命同盟会の機関紙「民報」の発刊に参画し、翌年の「革命評論」の創刊に関わるなど、夢を再び大陸に馳…(
続く
)
宮崎 滔天(ミヤザキ トウテン)
明治3年、熊本県に生れる。徳富蘇峰の大江義塾、次いで東京専門学校に学び、また小崎弘道によりキリスト教の洗礼を受けるが、八郎、民蔵、弥蔵の兄たちの感化で、中国革命の援助を念とする早い民間の浪人として大陸の諸方に行する。挑戦独立党の金玉均あるいはフィリピン独立運動のポンセと識り、同志と事業に挺身するうち明治30年に初めて孫文に会してからは、孫を扶けて奔命するも、同33年のいわゆる恵州事件で志の破れたことから身を転じ、浪曲師桃中軒雲右衛門の門に入った。その後同38年、中国革命同盟会の機関紙「民報」の発刊に参画し、翌年の「革命評論」の創刊に関わるなど、夢を再び大陸に馳せては運動に周旋の労をとり、同44年の辛亥革命後は臨時大統領に就いた孫文と行動を共にすること多く、中国との間を往来して歳を送るが、大正11年に日本で歿(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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明治3年、熊本県に生れる。徳富蘇峰の大江義塾、次いで東京専門学校に学び、また小崎弘道によりキリスト教の洗礼を受けるが、八郎、民蔵、弥蔵の兄たちの感化で、中国革命の援助を念とする早い民間の浪人として大陸の諸方に行する。挑戦独立党の金玉均あるいはフィリピン独立運動のポンセと識り、同志と事業に挺身するうち明治30年に初めて孫文に会してからは、孫を扶けて奔命するも、同33年のいわゆる恵州事件で志の破れたことから身を転じ、浪曲師桃中軒雲右衛門の門に入った。その後同38年、中国革命同盟会の機関紙「民報」の発刊に参画し、翌年の「革命評論」の創刊に関わるなど、夢を再び大陸に馳…(続く)
明治3年、熊本県に生れる。徳富蘇峰の大江義塾、次いで東京専門学校に学び、また小崎弘道によりキリスト教の洗礼を受けるが、八郎、民蔵、弥蔵の兄たちの感化で、中国革命の援助を念とする早い民間の浪人として大陸の諸方に行する。挑戦独立党の金玉均あるいはフィリピン独立運動のポンセと識り、同志と事業に挺身するうち明治30年に初めて孫文に会してからは、孫を扶けて奔命するも、同33年のいわゆる恵州事件で志の破れたことから身を転じ、浪曲師桃中軒雲右衛門の門に入った。その後同38年、中国革命同盟会の機関紙「民報」の発刊に参画し、翌年の「革命評論」の創刊に関わるなど、夢を再び大陸に馳せては運動に周旋の労をとり、同44年の辛亥革命後は臨時大統領に就いた孫文と行動を共にすること多く、中国との間を往来して歳を送るが、大正11年に日本で歿(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)