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出版社名:法政大学出版局
出版年月:2009年6月
ISBN:978-4-588-15056-2
712,21P 図版16P 22cm
両インド史 東インド篇/上巻
ギヨーム=トマ・レーナル/著 大津真作/訳
組合員価格 税込 17,820
(通常価格 税込 19,800円)
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インド・東南アジアと新大陸を含む啓蒙期の世界史。専制主義や奴隷制を弾劾し、フランス大革命を準備した。
インド・東南アジアと新大陸を含む啓蒙期の世界史。専制主義や奴隷制を弾劾し、フランス大革命を準備した。
内容紹介・もくじなど
内容紹介:「両インド史」とは、本来のインドと東南アジア、アフリカ、さらにはコロンブスがインドと思いこんだ新大陸を含む啓蒙期の世界史である。この時代までに蓄積された膨大な旅行記と宣教師の報告書を原資料としつつ、専制主義・狂信・奴隷制を弾劾し、ユートピアと自由を讃える文章がちりばめられた本書は、圧倒的な人気を博し、フランス大革命を準備した。本巻は、全18篇のうち、1~3篇を収録。
『両インド史』は、初版から「モンテスキュー以来の記念碑的労作」(グリム)と評価してもかまわないほどの規模を持っていた。それは、これまで、まったく本格的な研究対象とはならなかった地域をとりあげ、その地理的・歴史的・文化的風…(続く
内容紹介:「両インド史」とは、本来のインドと東南アジア、アフリカ、さらにはコロンブスがインドと思いこんだ新大陸を含む啓蒙期の世界史である。この時代までに蓄積された膨大な旅行記と宣教師の報告書を原資料としつつ、専制主義・狂信・奴隷制を弾劾し、ユートピアと自由を讃える文章がちりばめられた本書は、圧倒的な人気を博し、フランス大革命を準備した。本巻は、全18篇のうち、1~3篇を収録。
『両インド史』は、初版から「モンテスキュー以来の記念碑的労作」(グリム)と評価してもかまわないほどの規模を持っていた。それは、これまで、まったく本格的な研究対象とはならなかった地域をとりあげ、その地理的・歴史的・文化的風土を論じ、貿易をキーワードに過去と現在の経済的・政治的歴史を調査し、描き出していた。本書は、初めての世界史的記述と言える『法の精神』と比べても、また、同じく世界史を扱って、少し遅れて出版されたヴォルテールの『習俗論』と比べても、質・量ともに、これらをはるかに超える壮大さを持っていた。内容の実証性と資料の厳密さおよびその広がりにおいては、類書を寄せつけぬ水準に達していた。詳細な訳注に加え解説・索引を付す。
もくじ情報:第1篇 東インドにおけるポルトガル人の発見、戦争、征服(古くはアトランティス大陸があったと推測される海域におけるポルトガル人の最初の航海;マデイラ島の発見。この島の現状;ポルトガル人のアフリカ大陸紀行 ほか);第2篇 東インドにおけるオランダ人の植民、戦争、政治、貿易(オランダの古代諸革命;オランダ共和国の樹立;オランダ人による大インドへの最初の航海 ほか);第3篇 東インドにおけるイギリス人の植民、貿易、征服(イギリス人の古代貿易を概観する;イギリス人による最初のインド航海;オランダ人とイギリス人の紛争 ほか)
著者プロフィール
レーナル,ギョーム=トマ(レーナル,ギョームトマ)
1713年フランス南部の小さな町ラパヌーズに生まれる。ロデースのイエズス会コレージュに学び、卒業後イエズス会に入会する。1747年頃パリに赴き、文芸ジャーナリストとして活躍、1750年には『メルキュール・ド・フランス』の編集主幹の一人となり、ジャーナリズムの世界に確固たる地歩を占めた。1747年に『総督職の歴史』を、その翌年には『イギリス議会史』を出版する。1750年にはヴォルテールの推薦によりロイヤル・ソサイアティ入りを果たした。1770年、『両インド史』を、ディドロ等の協力を得て、匿名で出版し、その後、二版に渡り改訂増補し、いずれも「飛ぶ…(続く
レーナル,ギョーム=トマ(レーナル,ギョームトマ)
1713年フランス南部の小さな町ラパヌーズに生まれる。ロデースのイエズス会コレージュに学び、卒業後イエズス会に入会する。1747年頃パリに赴き、文芸ジャーナリストとして活躍、1750年には『メルキュール・ド・フランス』の編集主幹の一人となり、ジャーナリズムの世界に確固たる地歩を占めた。1747年に『総督職の歴史』を、その翌年には『イギリス議会史』を出版する。1750年にはヴォルテールの推薦によりロイヤル・ソサイアティ入りを果たした。1770年、『両インド史』を、ディドロ等の協力を得て、匿名で出版し、その後、二版に渡り改訂増補し、いずれも「飛ぶように売れた」が、1781年、アンシアン・レジームの出版弾圧により身柄拘束と財産没収の判決を下されたため、フランスを脱出する。10年の追放の後、1791年にパリへ帰還し、「大革命の父」と賞讃されるが、議会に対して送った勧告の書は「専制主義の復興を企てるもの」として議会と民衆の憤激をよび、再びパリから脱出する。ナンシー、シャイヨ、アティス=モーンスの友人宅を転々、モンレリの娘宅を経て再びシャイヨに戻り、1796年同地の友人宅で死去

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