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戦争
出版社名:明成社
出版年月:2007年7月
ISBN:978-4-944219-57-5
34P 21cm
ルバング島戦後30年の戦いと靖国神社への思い/まほろばシリーズ 2
小野田寛郎/著
組合員価格 税込
548
円
(通常価格 税込 576円)
割引率 5%
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内容紹介・もくじなど
もくじ情報:終戦を知らずに戦い続けた三十年;「心ならずも戦死された」は英霊に対する侮辱;「死んだら会おう」と約束した場所は靖国神社以外にはない;独身で亡くなった霊は誰が祀るのか;「生き続ける」という任務;「隊長、早く死んだ奴の方が楽だったですね」;自然の中で感じた人間の弱さと社会の恩恵;目的のために全力を尽くせば道は開ける;キャンプに懸けた子どもたちへの願い
もくじ情報:終戦を知らずに戦い続けた三十年;「心ならずも戦死された」は英霊に対する侮辱;「死んだら会おう」と約束した場所は靖国神社以外にはない;独身で亡くなった霊は誰が祀るのか;「生き続ける」という任務;「隊長、早く死んだ奴の方が楽だったですね」;自然の中で感じた人間の弱さと社会の恩恵;目的のために全力を尽くせば道は開ける;キャンプに懸けた子どもたちへの願い
著者プロフィール
小野田 寛郎(オノダ ヒロオ)
大正11年(1922)3月、和歌山県生まれ。昭和14年(1939)春、旧制海南中学を卒業。貿易会社に就職、中国・漢口(現在の武漢)支店勤務。昭和17年(1942)12月、和歌山歩兵第61連隊入隊、昭和19年(1944)1月、久留米第一予備士官学校入校。同年9月、陸軍中野学校二俣分校で訓練の後、同年12月フィリピン戦線へ。以後30年、作戦解除命令を受けられないまま任務遂行。昭和49年(1974)2月、鈴木紀夫氏と遭遇、同年3月、祖国に生還。昭和50年(1975)春、ブラジルに渡り、牧場を開拓、経営。昭和59年(1984)「自然と人間の共生」をテーマに、子供たちのキ…(
続く
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小野田 寛郎(オノダ ヒロオ)
大正11年(1922)3月、和歌山県生まれ。昭和14年(1939)春、旧制海南中学を卒業。貿易会社に就職、中国・漢口(現在の武漢)支店勤務。昭和17年(1942)12月、和歌山歩兵第61連隊入隊、昭和19年(1944)1月、久留米第一予備士官学校入校。同年9月、陸軍中野学校二俣分校で訓練の後、同年12月フィリピン戦線へ。以後30年、作戦解除命令を受けられないまま任務遂行。昭和49年(1974)2月、鈴木紀夫氏と遭遇、同年3月、祖国に生還。昭和50年(1975)春、ブラジルに渡り、牧場を開拓、経営。昭和59年(1984)「自然と人間の共生」をテーマに、子供たちのキャンプ(小野田自然塾)を開く(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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大正11年(1922)3月、和歌山県生まれ。昭和14年(1939)春、旧制海南中学を卒業。貿易会社に就職、中国・漢口(現在の武漢)支店勤務。昭和17年(1942)12月、和歌山歩兵第61連隊入隊、昭和19年(1944)1月、久留米第一予備士官学校入校。同年9月、陸軍中野学校二俣分校で訓練の後、同年12月フィリピン戦線へ。以後30年、作戦解除命令を受けられないまま任務遂行。昭和49年(1974)2月、鈴木紀夫氏と遭遇、同年3月、祖国に生還。昭和50年(1975)春、ブラジルに渡り、牧場を開拓、経営。昭和59年(1984)「自然と人間の共生」をテーマに、子供たちのキャンプ(小野田自然塾)を開く(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)